2021・5・20 Instagram

小善は大悪に似たり 大善は非常に似たり

コミニケーションや接し方の方法論ばかり

何のために技術を習得するのか(したいのか)

相手を思う心なくば

小善にも及ばず

Photo by Tirachard Kumtanom on Pexels.com

この言葉の解釈と実践には誠に苦慮しました。

未だ確実には掴み取っておりません。

解説として、自己満足における善が小善とありますが、真に大善とは無償のものに他ならないのかと問えば、正直申しまして心をを窮してばかりでした。

過去の反省点として、物事の理屈から入りそれなりの理解を得ないと動けない方でしたので、自分の行いは果たして相手のためなのかどうか、そればかりを考えていた気がします。

前職では様々な研修を導入してまいりました。環境整備、コミニケーション(NLPなど)、チームビルディング、読書会などなど、全てが一つ一つは素晴らしい物ばかりでした(費用もカッコ良かったですが 汗)。しかし、恐らく、現在定着しているものは無いでしょう。

一人一人の方々の心に何か届いた物はあったのか…一社長の実績としてどうであったのか…目に見える成果としては明らかに落第点でした。(今は違う次元で効果が出ている事を祈るのみです)

何故、立派な研修などの学習を行っても効果が出ない事があるのでしょうか。要因は様々あると思いますが、一つは目的が明確で無いこと。そして、手法を取り入れる事で出来た気持ちになってしまうと言う事です。

本来、真に目的を理解すると言うことは企業である以上、顧客、社員、ビジネスパートナー、などどこかの方に寄与する成長を期する学びを行うわけです。「目的を理解するイコール利他心を持つ心」に他なりません。研修には準備が必要なのです。もっと言えば普段の事業活動の中でこれがある企業には研修効果はとても高く、普段の事業活動が自分が良ければ全て良いという自社利益追求のみの精神であれば研修など取り入れても場を汚すのみです。

塞いだコップに水を注いでも周囲を汚すだけです。

その為この言葉が必要になって来るのです。「形から入って、心に至る」

この言葉は誠に確信をついています。古くから日本では修行と言えば何事も掃除から入る(場を清める)と言ったところから来ているのかも知れません。

しかしながらこの言葉にも、注意が必要です。「利他心の欠如」。

何故形から入って心に至るのかといえば、型を何度も繰り返し繰り返し行うことで、自らの心の動静を見つめそこに思考を巡らせながら、気づきや新しい境地を得る、と言うことでしょう。

俗な話で恐縮ですが、よくゴルフは練習とコースプレイに二分されますが、実力向上を求めるならばレッスンと言う指導を受ける場が必要でしょう。また、それはあったとして実に多いのは、レッスンを受けてそれを練習としてしまうところにあります。恐らく最低でもレッスンで一つの指導を受ければ自身で練習を4・5回は行わなければ身に付かない訳です。繰り返す必要があります。

特にコミニケーションに関しては、数多研修や手法が溢れていますが、そのじつ前提条件が肝になるのです。

「形から入って心に至る」とは実に「至る」までの時間軸を持つことが重要なのです。

経営において、それは経営者の覚悟にも近いものがあります。

真に自分の行いは顧客のためになっているのか。目先のことにだけ囚われていないか。顧客への思いも、社員への思いも大善経営が求められています。

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